今年の冬は、普段よりも寒さが厳しかった。
「あまり薪を使いたくないわ・・・」
新年を迎え、春が来るにはあと3ヶ月待たなくてはならないというのに、今の調子で薪を使っていけば、それまで持たないだろうという所まで減っていた。
しかも今年は、冬が長引くかもしれない。
ネロリは毛布を羽織るようにし、フランにもたくさん着込ませた。
ジェラルドが買ってきた毛糸の手袋をフランにはめさせたり、足を冷たそうにしていていれば、ネロリは子供の足を自分の腹に当てた。
とある吹雪の夜、ジェラルドが帰って来ないことがあった。
ネロリは、吹雪だから帰ってこないのなら心配はないが、この雪の中、もし自宅を目指していたらどうしようと眠りにつけなかった。
窓の木戸が風に煽られ、止めてある金具がギシギシと音を立てる。
ネロリの本心は、この漠然とした恐怖ゆえにジェラルドにそばに居て欲しかった。
しかし、この家のどこが壊れることはないし、何事も無く夜が明け吹雪が収まるだろうと思っていたから、ただの甘えたわがまま心だと自分を律した。
次の日の夕方、いつもより早い時間にジェラルドが帰ってきた。
「ただいま!」
ネロリは振り向くと、玄関にいる満面の笑みの夫がなんだか懐かしく思えて、すぐに抱きついた。
「おかえりなさい!早いのね」
ジェラルドの帽子を壁にかけながらネロリが言うと、ジェラルドは椅子に腰を深くかけ、フランを膝の上に載せた。
「昨夜は帰ってないからな。そりゃあ早く帰らせてもらったよ」
ネロリは笑って頷いた。
「すごい吹雪だったろう!大丈夫だったか?」
「ええ、大丈夫だったわ。
・・・・・・でも、心細かった・・・」
静かにそう言う妻の頭を、ジェラルドは優しく撫でた。
「あー。やっぱり帰ればよかったかな」
「そんな!危ないわ・・・。
あなたが倒れたら、わたし、心細いどころじゃない」
拗ねたような目付きで甘えてくるネロリを、ジェラルドはフランと一緒に腕の中に収めた。
それから、ジェラルドが帰らない日がよく出てくるようになった。
はじめのうちは心配していたが、仕事が遅くなったので帰らず教団内で寝たとか、徹夜の儀式に参加させてもらったからだとかだったので、ネロリもいちいち理由を聞くことはなくなっていった。
そして、ジェラルドが帰って来ない日がある、ということにも慣れつつあった。
夫が持ち帰ってくる給料、金貨は、段々と増えていった。
「俺、来週とうとう神殿に行くよ」
仕事がうまくいっているんだと嬉しくなり、ネロリは彼を応援した。
だから、ジェラルドが2日連続で帰ってこないことにもすんなりと慣れていった。
狩猟をやめて一年が経った頃、ジェラルドは1週間に一度自宅へ帰って来て休暇を取り、再びオランへ仕事へ行くというサイクルができつつあった。
ネロリはジェラルドが持ってきた貨幣を握り、フランを連れて農家たちの集落へ行く。
そこで食べ物を買って帰るのだった。
ジェラルドのこと、稼ぎのことやフランのこと、集落から離れて暮らしているネロリだから、農婦たちとの会話は新鮮なものだった。
ネロリもそんなに愛想は悪くないが、気さくな方でもなかったので、集落とは丁度いい距離をおいた付き合いをしていた。
中には詮索しようとする人も居たが、フランの機嫌のせいにして早々に切り上げる術もネロリは身につけた。
そういう日常の中、ジェラルドがいない分、女手だけで毎日を仕切らなくてはいけないので忙しさもあり、寂しさはほとんど感じていなかった。
冬が過ぎ、夏も、過ぎようとしていた。
「フラーン。今日はかぼちゃだよー」
大きなかぼちゃは昨日、集落から買ってきたものだ。
片道30分ほどかかる道のりで、フランを抱えながら重い思いをして持ち帰ったものだった。
包丁で食べられる大きさにわけ、鍋に水とともに入れて竈に乗せようとした時。
コンコン コン
戸がノックされた。
「・・・はぁい」
ジェラルドはノックをしない。
農家のかただろうか?とネロリは考えた。
(なにかしら)
かなりの訝しんだ表情で、ネロリは玄関扉を開く。
「―――――まあ!」
そこには、懐かしい顔があった。
「奥さん、ご無沙汰しておりました」
「ヤーンさん!まあ、どうしました?」
ジェラルドに何かあったのだろうかと、ネロリは不安に駆られてヤーンの顔をじっと見つめた。
しかしヤーンの方といえば、悪いニュースを抱えた様子は一切見られず、家の中へ視線をやるくらいだった。
「いやなんの、近くを通りましてね。奥さんのご様子を伺いに来ただけです」
「そうなんですか・・・。元気ですよ、わたしは」
入れてもらいたそうにしているということはネロリにはわかっていたが、夫が暫く不在の家で、しかも数年ぶりに顔を合わせる人物を家に上げるには、やや抵抗があった。
が。
「少し休まれていきますか?」
ネロリはそう言った。
「いいですか!では、ごめんください」
フランはネロリの後ろから、ヤーンを眺めていた。
ヤーンは夕食の時間までいて、ジェラルドのことや教団での働きについて話をした。
その話を聞いてネロリは不思議と、帰って来ないジェラルドのことがとても身近に感じられた。
「―――そうなんですか。
あの人、頑張っているんですね」
「ええ。それはもう・・・」
簡素なダイニングテーブルに向かい合っているヤーンは、テーブルの上で手を組んだ。
「奥さん。何でも、私に相談してくださいね」
ヤーンの改まった口調によって、空気が緊張しないようにネロリは笑った。
「何も悩みはないですから、大丈夫です」
「・・・・・・」
フランが、まま、と言った。
「なぁに? ・・・あらやだ、そうね、お腹すいたの?こんな時間だものね」
ネロリは助かったという気持ちで椅子から立った。
「ごめんなさいね、ヤーンさん。わたし、お夕飯の支度しますわ」
「あ、はい。・・・じゃあ私はこれで、失礼します」
「あら。・・・お気をつけてくださいね」
ネロリはヤーンの帰りを見送り、ゆっくりと扉を閉めたあと静かに閂をした。
ジェラルドが帰らなくなって7日が経ち、8日目。
家にある貨幣が目減りしていく。
朝、ジェラルドは帰って来なかったと知ってネロリはため息を一つつく。
しかし一日はいつもと変わりはない。
起きて洗濯をし外に干し、フランと一緒に朝食をとったあと掃除をしたり、水を汲みに行ったりする。
フランを遊ばせておき、昼になれば手芸をしながら子供の昼寝を見守る。
日によっては午前中に集落へ赴く。
夕方前に洗濯物を取り込み、ご飯の支度をして食べたあと、歌を歌って楽しみフランを寝かしつける。
今日もそんな一日を頭に描いていた。
(あ、今日は集落へ行く日だわ)
食べ物は痛むので買い置きがしにくいが、毎日通うのは大変なので3日に1度の買い物になっていた。
買い物、といえばオランを想う。
(あの人は、元気なのかしら)
オランへ行ってみようか、と思うこともあった。
1日かける覚悟で行けば、まめに休憩をはさんで、フランが疲れてぐずることもないだろうかと思う。
しかし、ネロリには教団の場所も神殿の場所も知らない。
そう考えると、どうしてジェラルドは帰ってこないのか考え、腹立たしく、そして悲しくなった。
そして最後にはいつも「あの人は頑張っている」という結論で、考えることをやめるのだった。
コンコン コン
ハッとしてネロリは玄関戸を見る。
フランが走り寄り、届かないドアノブに手をかけようとしていた。
「あらあら、待ちなさい」
このノックはヤーンだ、とネロリは覚えている。
前と違い、今はヤーンの訪問を厭わしく思わなかった。
むしろ歓迎する気持ちがあった。
ジェラルドのことを色々聞こう、と思った。
「おはようございます」
扉を開けてネロリは言った。
開けた先に居たのはやはりヤーンだ。
ネロリの笑顔に驚いているようであった。
「おはようございます」
やや恐縮した様子でヤーンが頷いた。
「今日、狩場の方に用事があるので、行く前にこちらへよっt」
「どうぞ、一休みしてくださいな」
ヤーンが前置きを喋り終わる前に、ネロリは中へ迎い入れた。
それもヤーンの調子を狂わせた。
「フラン」
ネロリはフランを呼び、ママはお客さんとお話するからいい子にしていてね、と言葉をかける。
そうしていつもの席、ダイニングテーブルの向かいにネロリとヤーンの二人が座った。
「今日は天気がいいですね。狩場へ行くには丁度よさそうですね」
他愛のない話から入り、ネロリは話題をジェラルドのものへ移していった。
―――あの人は元気していますか
―――何をやっていて、どのくらい忙しいんでしょうか
―――あの人の様子は、どのようですか
ジェラルドが暫く帰ってきていないから心配している、ということはあまり悟られないようにしたかった。
ただの強がりなのか、家庭不和に思われたくない見栄なのか、いずれにしろネロリは、毅然とした妻を演じたかった。
しかしそのようなものは、いくら隠してもヤーンがジェラルドの近くにいるならば隠しようがないことも、わかっていた。
「ジェラルドさんは立派ですよ」
「そうですか」
「神官ではないですが、神殿においてもうすっかり無くてはならない人物です」
ネロリはいつもこのセリフで安心してしまう。
しかし今日は、自分を誤魔化さない気持ちを強く持とうとしていた。
「神殿の場所、どこですか?」
「すみません、そればかりはさすがに奥さんでも、私からは言えません」
「そうなんですか・・・」
ネロリが落胆の表情をして下を向いたときも、ヤーンはずっとネロリを見ていた。
「でも奥さんが秘密を守られれば、教えられないこともありません」
「秘密・・・?わたし、守りますよ。絶対守ります」
二人の視線はぶつかった。
「ならば、フランくんを外へ出してください」
「そんな。まだ小さいから危ないですし、わたしたちの会話も意味がわかっていませんよ」
「いやいや。わからないから聞かせてもいいだろう、というのは違います。
第三者のいる場所で極秘事項を漏らす。
これは私が、秘密を破る行為をしてしまうことになるでしょう?」
ネロリとしては腑に落ちないところもあったが、逆らっても事は良くならないだろうと、渋々受け入れた。
フランへ、少しの間お外で遊びなさい、遠くはダメよ、と伝えて家から出した。
「ありがとうございます」
ネロリの行為にヤーンは礼を言った。
ネロリが椅子に戻り、さて口を開こうという前に、ヤーンが切り出した。
「では、先に奥さんの方から、秘密を守るという証明をしてもらいます」
ヤーンは席を立ち、ネロリの前へ行った。
「? どういう・・・」
テーブルの上に乗せていたネロリの手首がヤーンに掴まれた時、ネロリはヤーンに騙されたということを知った。
「やめてください!やめてください!!
守れません!わたし、何にも秘密守れません!!
やめて!! 言うわ!! イヤ!!!!」
それは金切り声の叫びとなり、外にいるフランに火をつけたかのように泣かせるほどだった。
「ギャーーーー!!!ママーーー!!!
こわいーー!!マー!!マーーー!!!」
直接は見ていないが、ネロリの悲鳴がフランには充分恐怖だった。
鼻息を荒くしていたヤーンも、その二つの悲鳴に挟まれて、一目散に小屋から逃げていった。
それからネロリは、10日以上、この狩猟小屋を離れて農家の集落に世話を願い出た。